RECRUITING 2025

ヒロセのあゆみ

ヒロセのこれまで歩みは、そのまま日本のコネクタの歴史ともいえるものです。
ここでは創業から現在までの各年代のトピックスをお届けします。

創業~1950年代

HIROSE’s
FIRST HISTORY

1937年(昭和12年)、電気絶縁物および通信機部品の加工販売を営む広瀬商会として東京市赤坂区に創業。1941年、広瀬商会製作所と社名変更。1945年に神奈川県湯河原町に工場を新設。戦時中一時生産をストップしたものの、終戦翌年より生産を再開。1948年、丸形、角形、同軸の各コネクタの生産をスタート。
1953年、本社を東京都品川区大崎に移転。1954年に大田区下丸子に工場を新設した。
当時は海外製コネクタのコピー品や改良品の生産が主体。1950年代後半より官公庁をはじめとした受注が入るようになる。


1953年(昭和28年)当時の本社社屋

1950年~1970年代

HIROSE’s
SECOND HISTORY

1962年、初の固有技術によるオリジナルコネクタ第1号開発に成功。以降、コピー品ではないオリジナルコネクタの開発に注力していく。1963年に「ヒロセ電機株式会社」に社名変更。1960年代後半より、協力会社を活用した現在のモノづくりシステムのベースとなる方式を採用した。また、ほぼ同じ頃、初の海外代理店との契約を締結し、グローバル展開をスタートさせた。
高度成長時代の波に乗って順調に業績を伸ばし、1972年、東京証券取引所第二部に上場。その翌年には【英知をつなげる小さな会社】というスローガンを定めた。生産規模の拡大に伴い、1967年に菊名工場、1973年に習志野工場を新設。1974年には岩手県宮古市に東北ヒロセ電機を設立した。1979年、初の「ヒロセ技術展」を開催した。(以後、現在まで計14回開催)

ヒロセのオリジナル製品第一号

角型1300(ミニコンV)シリーズ

丸形RM(ラミコン)シリーズ(左)
同軸MSS(マミコン)シリーズ(右)

東証二部上場当日の様子

1980年~1990年代

HIROSE’s
THIRD HISTORY

1984年、東京証券取引所第一部に指定替え。その前年には第一部昇格を見据え、コーポレートアイデンティティを導入。1982年に福島県郡山市に郡山ヒロセ電機、1994年には岩手県一関市に一関ヒロセ電機を設立。湯河原や下丸子、習志野などの関東の工場機能の地方移転を進めていき、以降、東北ヒロセ電機を含めた国内3工場体制として展開していく。1980年には、ヒロセ初の海外現地法人となるヒロセエレクトリックUSAを設立。また、1987年に台湾に資材調達事務所(現台廣電子)を設立したのを皮切りに生産のグローバル化をスタート。以後、マレーシア、インドネシア、中国と、海外に生産拠点を相次いで設立した。1988年、菊名工場敷地内に技術センター(現菊名事業所)、1989年には東京都品川区に本社ビルが完成、国内外の拠点整備を進め、ワールドワイドでのコネクタニーズに対応する体制を整えていった。


本社

技術センター(現菊名事業所)

2000年~現在

HIROSE’s
FOURTH HISTORY

アジアやヨーロッパなどに海外販社をいくつも立ち上げ、海外売上高が大きな伸びを見せる。2000年代後半からは、全体の売上高にしめる海外販売比率が50%を超えるようになった。2005年度には初めて連結売上高1,000億円を突破した。高収益企業として企業体力の強さを見せ、2000年代にあった二度の経済危機(ITバブル崩壊・リーマンショック)の際にも、業績に影響を受けたものの、20%以上の営業利益率を堅持した。
2011年秋、横浜市都筑区に新総合拠点「横浜センター(現本社)」が完成。京浜地区においてそれぞれ事業所が分かれていた設計開発機能、生産技術機能、生産管理・品質保証機能、営業・マーケティング機能を集約、お互いの連携をさらに深め、お客様へ機動性の高い提案を展開できるようになった。2017年には管理部門が本社(現五反田事務所)から横浜センターへ移転。工場の機能以外がほぼ集結することとなった。2020年からは開発の発信地だった横浜センターが本社として機能を開始。海外販売比率は70%を超え、従業員の国籍も多岐にわたり、益々多様化するグローバルニーズに対応すべく体制を整えている。


本社(旧横浜センター)

「ヒロセ技術展」

あなたの開拓魂こそが、
ヒロセ電機の未来です。

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